あなたは、知っていますか「ブータンが目指したこと」松沢哲郎 京都大学霊長類研究所教授

京大といえばブータンブータンといえば京大。そう言われるユニークな国際協力の試みを、京都大学は長年進めてきた。日本とブータンをつなぐ歴史を紹介したい。
ブータンヒマラヤの山麓にある小国である。

国土は九州くらいの広さで、人口は約74万人だ。まだ日本との国交がなかった1957年秋、時のブータン第3代国王の王妃が来日し、京大教授桑原武夫らが京都の街を案内した。

これをきっかけに京大とブータンの交流が始まった。 翌年、植物生態学者の中尾佐助が日本人として初めてブータンを訪問。このときの調査が、のちに中尾の前葉樹林文化論」に結実した。

中尾の大阪府立大学での教え子、西岡京治は1964年にブータンに渡り、1992年に没するまで農業育成に心血を注いだ。

1969年、桑原と松尾稔(のちの名古屋大学総長)らによる学術調査隊がブータンに赴き、経済、自然、風俗などを多角的に調査した。

1985年には堀了平率いる京大山岳部隊がブータンヒマラヤのマサコン峰に初登頂。隊の一人だった医学研究者の松林公蔵はその後フィールド医学隊を率いてブータンの医療調査を進めた。

私は1995年、初めてブータンを訪れた。チンパンジーに石器使用の文化かおることを発見し、世代を超えて伝統的な文化を伝承している人々について知りたかった。

その後、京大とブータンとのつながりを一気に加速するために、第4代国王ジグミー・シンゲ・ワンチュク殿下にお会いすることを考えた。すでに譲位していたとはいえ、殿下こそがこの国のかたちを作った方だからだ。つてをたどって王室に働きかけ、2010年10月に面談が実現した。 

ワンチュク殿下は1972年、父である第3代国王が客死し、16歳にして王位に就いた。中国、インドという大国に挟まれたブータンをどのような国にすべきか考え、次々と新たな施策を打ち出した。 

最も有名なのは、ブータン国憲法第九条「国民総幸福」の提唱だろう。「国は、国民総幸福GNH、グロス・ナショナル・ハッピネス)を希求する」としている。

国民総生産にかわる国民総幸福という理念と指標を打ち出した。さらに、それまで国王に集中していた権限を徐々に縮小。ついには自ら王政を廃して憲法を制定し、ブータンを立憲君主国にした。

GNHを盛り込んだ憲法の発布は2008年。即位から長い時間がかかっている。

「なぜですか?」と問うたら、まず識字率の向上を考えたからだそうだ。字を読めなければ、どんなに立派な憲法を作っても読むことができない。学校教育に力を入れ、識字率が6割を超えるまで発布を待った。

小学校の授業も見せてもらった。制服は日本の着物姿に似た伝統衣装。一年生から英語を教えている。インドとの交流なしに、内陸の小国は生きていけないからだという。一方、国の言語であるゾンカ語と文字もきちんと教え、固有の文化とその継承を重んじている。

ユニークなのは環境教育だ。国語や算数とともに、環境が毎日教える主要教科になっている。自然環境や生態系に配慮した国づくりに欠かせないという。かつて日本の篤志家に友好の印に桜並木を作りたいと言われたが、丁重に断ったそうだ。桜はブータンでは外来種である。自国の木々をたいせつにした植林事業を推進したいという。

その面談の日を契機に、京大とブータンの友好プログラムを立ち上げた。今年2月、京大附属病院の協力でブータン初の医科大学院が設置された。霊長類研究所から派遣され、現地で4年間新生児医療を担ってきた西澤和子が准教授になった。

この20年間で3度ブータンを訪れ、国の変わりゆくさまを傍から見てきた。けっして「幸福の国」ではない。犯罪もあるし、高齢化や過疎化も忍び寄る。しかし目をつぶって思い返してみると、質素で、慎ましく気高い人々の暮らしが今もまぶたに焼き付いている。

松沢哲郎 京都大学 霊長類研究所教授

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